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補助、解説、ツッコミはするけど説教はしない完璧なスキル振り

 投稿者:いっしゅう  投稿日:2019年 4月23日(火)09時29分10秒
   メンタルケアは遼爺という名采配。

>同一クラスタ
>所属する環境によってあてがわれる「キャラ」も変化する
 場所や人によって「顔」を使い分けるのは昔からあることなんでしょうが、その辺は経験値の差もあるし、学生の場合立場が変わりにくいでしょうからね。スポーツでもクラブでも指導される側だし。
 私はLINEを使ったことがないですが、きっちりグループ分けして各グループ毎にキャラを使い分けられればまだしも、グループを跨いで共通の友達がいるとキャラの使い分けが難しくなるんじゃないでしょうか。SNSで本垢やサブ垢を使い分けるのも所属している(フォロワー)層を変えるためってのが大きいと思うんですよね。でもリアルの延長でLINEのようなコミュニケーションツールを使っているとメンツが混在して結局立ち回りを大きく変えられないんじゃないかな。


>トライさん
 なにかと思ったら家庭教師の人かw


>キャロル&チューズデイ
 ガッチガチのテンプレ展開ですねー。捻りを持ってくるのか王道のまま行くのか。声優が何気に豪華w


>殴られ(殺され)たくなかったら
 それだと177条の強制性交等が適用されると思うんだけど、明確な脅迫ではないが抵抗できなかった(しなかった)場合っていう微妙なラインが漏れるんだよね。時々酔払せて云々とかの事件が起きてるし、最近は動画撮影も簡単になったから益々不利になっているんだけれど。
 痴漢容疑では無茶な状況でもアウト判定されるのに、性犯罪はスルーする日本司法のガバガバ判定なんなんだろうな。
 
 

妖精枠における有能さでは歴代最高かもしれない

 投稿者:この道の者  投稿日:2019年 4月22日(月)00時12分36秒
編集済
  >「作り物じゃないでプルンス~!」

  (↑)これ、本来ならひかるが切る啖呵だと思うんですけれどねぇ。しかし次回の学校回に着地させるまでの話の持って行き方が予想の斜め上過ぎて吃驚ですよ(笑)。


>どっかの黄色と被っちゃうんだなぁ

   しかも変身後は本作品タイトル(及びメインスポンサー支給の最新対戦アイテムの名称)とも被っているというオマケ付きw。


>ノン・レイシャリズムとかいろいろ理想
>選挙とかの為の後付け感


   そうですか?アレは私は理想論というよりむしろ強かな現実路線の表明だと受け留めましたが。本編にもあったように、植民地の影響が未だ濃い当時のボツワナで官僚機構を支える白人を排除した場合、国政が回らなくなるのは火を見るよりも明らかだったようですし(ルワンダなどと違い、民族間の対立という要素自体が元来希薄だったことも幸いしたみたいですが)。いずれにしてもジンバブエのムガベ大統領が政権末期に白人農場主を追い出したような手の平返しをすることもなく、政権公約を生涯貫き続けた故カーマ大統領は大したものだと思いますね。

   まぁ本編のラストで語られる、ボツワナ政府が狩猟採集民のサン人(一昔前はブッシュマンと呼称した)に対して取った、人権上多分に問題のある定住政策についてだけは弁護の仕様もありませんが(苦笑)。しかしそれにしたところで、サン人がボツワナ政府に対し武力では無く法廷闘争に訴えて勝利し、政府も(不承不承ながら)裁判所の決定に従ったという件からは、かの地には既に成熟した民主主義機構が根付いているなぁという好印象を受けましたね~。


>『キャロル&チューズデイ』第2話

   NHKかと見紛うばかりの予想を全く裏切らない王道鉄板展開ですが、テンポ良く話が進むのでもう少し追っかけてみたいと思います。しっかし流石本職の歌手を連れて来ただけあって歌が上手いなぁw。


>正直なところ21世紀の方が変化を乏しく感じています。
>録画する機械が高画質・長時間になっても「録画する」の派生形


   同感ですね。携帯からスマホへの変化にしたって、私のような門外漢には「既存技術の延長」としてしか映りませんものねぇ。

  最近は自動運転の実用化が専ら取り沙汰されていますが、ふた昔ほど前の未来予想図には必ず登場したエアカーとか、ロサンゼルス五輪(1984)の開会式で登場した個人用ジェット推進飛行装置とかの方が私的には気になるかなぁ…。


>なんで「同意なく」の文言入れなかったんだろう

   つまり、「殴られ(殺され)たくなかったら大人しく俺に抱かれろ」と脅迫された被害者が、しぶしぶながら「同意」して身を任せる場合、加害者を罪に問えないってことですよねぇ。その一方で「殴られ(殺され)たくなかったら大人しく金を出せ」と脅迫された被害者が、しぶしぶながら「同意」して金銭を渡した場合、その「同意」は法的には同意と見做されず、恐喝罪が成立するようですね(↓)。

◆◆◆

【恐喝 刑法249条】

 一 人を恐喝して財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。
 二 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。


◆◆◆

   財物の棄損と人間性の棄損(生命の喪失)とを考えた場合、後者の方が遥かに由由しき事態の筈なのに、この扱いの差は何なんでしょうねぇ…仰る通り確かに謎です。

   (補足:(準)強制わいせつ罪・(準)強制性交等罪は2017年の刑法改正によって、現在では非親告罪となったようです(↓))
   https://izumi-keiji.jp/column/law/keihou-kaisei
   http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/ksup/rev/kei/r017.htm
 

冬貴お父様

 投稿者:安藤さんに踏まれたい  投稿日:2019年 4月20日(土)17時54分36秒
  我が家では「トライさんに似ている」という評価が専ら。
それはともかく、出来る大人が出てくる話が好きです。
今後、和解(と言うか、状況を理解・把握)して、プリキュアの後備えとして動いてくれると、ちょっと嬉しいかも。

>変わらない日常
改めて、感じ方は人其々だなと思いました。
昭和の爺ぃとしては、「TV番組を家庭で録画できるようになった」「ゲーセンみたいなゲームが家庭で出来るようになった」「電話を外に持ち出せるようになった」ってな変化を見てきたので、正直なところ21世紀の方が変化を乏しく感じています。
録画する機械が高画質・長時間になっても「録画する」の派生形であって、映像関係で次に "ハードが変化した" と個人的に感じられるのは、空中に3Dで映像が映し出されるようになる時だ思っています。
 

ホームの安心感

 投稿者:cosmos  投稿日:2019年 4月20日(土)04時42分5秒
編集済
   地球に無事帰れて安全基地たる遼爺と話ができた事も大きかったと思う今回。これが地球に帰れないままだったらヤバかったんじゃないかと。目まぐるしく変わる状況の中でも避難できる所があるというのは、心を置き去りにしない上で有効なのかも知れません。

 失敗について冷静に見る視点を養う方向かと思ったら、ひかるの本質を肯定する事で立ち直らせる方向でしたか。やはり成長を急がない、全体としてゆっくりとした作品だと感じます。

 そういえば本作って「どんな事情があっても人の物を取ってはいけない」っていう、普通なら特に根拠のないモラルとして主人公側が主張する事を言ってるんですよね。
 そういう説教臭さ自体がプリキュアでは珍しいのですが、それ以上に上記を主張する上でのそのキャラなりの根拠(えれななら「笑顔」ひかるなら「好き」)を掘り下げているのが興味深かったです。ちょっと他ではお目にかかれないですね。

>ララ
 序盤で空回っていた責任感の強さが、今回過不足なくハマった感じでしょうか。歳若くとも大人認定されている事で、実力と意識の高さがミスマッチを起こしていたのかも知れません。実力相応の責任を与えれば、良い仕事ができる娘なんだろうなと。


>又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて
 これに未成年を泥酔させる事が含まれないってのが凄いよ法治国家。後、多少の抵抗ができたところでセックスが成功した時点で抗拒不能だと思うんだけどな。「同意なく」の文言が無いんだったら「同意あり」のセックスも裁けばいいと思うよ。


>一芸に秀でている人はそれなりに一目置かれていた
 僕の頃は少し違ってましたね。運動至上主義というか、スポーツ万能が一番偉くて勉強できても「がり勉」って馬鹿にされるだけでした。
 ド田舎特有の暴力的な風土がそうさせるのかと思ってましたが、もしかしたらスポーツができるという事は同年代の遊び相手として有能で、勉強ができる事は教師ウケが良いだけに過ぎないという、教師(大人)の価値の失墜が表れていたのかも知れませんね。

>学校の外の環境にいることが多くても結局同じクラスタの人種だからね
 結局「キャラ」という評価軸で評価されるという事でしょうか。
 僕は所属する環境によってあてがわれる「キャラ」も変化すると思っていて、それが個人に対する評価の多様性を生めるのではないかと思ったのですが…
 また、評価軸を多く持つ事は逃げ道を用意する事でもあって、嫌な「キャラ」から逃げつつ自分に合った「キャラ」を見つけたり、様々な「キャラ」を持つ事で一つのキャラに一喜一憂しない「自分」が作れると思ったんですが、難しいですかねー。

>2000年以降生活習慣を含めてハード的にはほとんど変化してないね
 20年前つったらまだ十代だったんで、そこからのイメージだとそれなりに変わった20年だったと思いますけどね。
 確かにインターネット登場前後みたいなパラダイムシフトは起こらなかったけど、私生活では携帯は3回くらい変えたし、据え置きゲームハードも2回買い足したし、携帯ゲーム機はあまり変わらなかったけど、それは昔もゲームボーイからゲームボーイアドバンスぐらいの変化しか大きいのはなかったわけだし。深夜アニメも今ほど大量に放送されてなかったと思います。
 記録媒体もVHS→DVD→Blu-rayと結構変わって、アニメの円盤を買い集める感覚も結構最近のものじゃないでしょうか。
 …オタクネタばっかだな…orz

>「インスタ映え」する写真をネット上にupすることに躍起になる余りすっかり疲弊し切ったブロガー
 そいつが特別使い方が下手くそだっただけでは。
 それを差し引いても、インスタグラム「だけ」やるのが問題だと思うんですけどね。まぁSNSの種類と個人の相性の問題もありますし、自分もTwitterばかりで今はブログは止めちゃいましたが…
 要は自分の中に多様な自分を持つ事が重要で、その為のツールの性質は二の次だと思うんですがねぇ…


>やる夫はアフリカで奇跡を起こすようです
 途中までしか読めんかった…orz
 何この主人公補正かかりまくった人生。事実は小説よりも小説っぽいを地でいった人ですね。映画化されたのも納得。

 思うに超のつく実力主義者でリアリストだったんじゃないかなぁ…民主主義に底触してでも相手が白人でも優秀な人材は確保したいっていう。
 ノン・レイシャリズムとか色々理想もあったみたいだけど、選挙とかの為の後付け感がしてしまいます。(毒)


>MG 1/100 ガンダムF90
 オプション装備が何種類まで出るか心配。後、プレミアムバンダイの何でもアリ感


>働かない!魔王さま!
 G3の弱キャラ感。好きなライダーなんだけどね…
 あ、ツクヨミちゃんはいっそラスボスになってどうぞ。


>ロビハチ
 …なぁ、軟体動物のおっぱいってどんだけ柔らかいんだろうな…(真顔)

>ひとりぼっちの○○生活
 最初なんか演出変じゃね?って思ったけど、大分改善されてきた感じ。
 

おや、奇遇ですね

 投稿者:この道の者  投稿日:2019年 4月19日(金)12時00分24秒
編集済
  >平野克己『経済大陸アフリカ ―資源、食糧問題から開発政策まで―』中公新書2013

   私もつい一昨日読み終えたところです。先に紹介したやる夫スレ以降現代にかけてのサブサハラ・アフリカ情勢が概説してあって、興味深く読めました。

   やる夫スレでも触れられていたように、1980年代に入ってから20年以上石油や天然ガスやレアメタルなどの国際価格は低迷し続けていたようですが、周知のように近年の中国経済の急成長が今世紀初めからの資源価格の急騰を促し、結果豊富な天然資源を抱えるアフリカの輸出の大幅な伸長へと連鎖したみたいですね。

   しかしその状況がアフリカにとって望ましいとは必ずしも言えないんだとか。都市部と農村部の経済活動が完全に分断されているため、資源輸出によって得た莫大な利益の恩恵は都市にしか齎されず、都市部と農村部の所得格差は開く一方。荒廃した農村の住民らは自分達が食べる分だけの作物しか生産しないため、都市の住民は外国から高価格の穀物を輸入せざるを得ない。結果物価は高止まりし、それを受けて都市部の労働者の賃金は異常に高騰する。よって製造業を誘致した外資は現地採用を手控えるか撤退するかするため、天然資源頼みの経済構造から永遠に脱却できない(しかもいつ枯渇するかも分からない)…そんな負のスパイラルが続いているようです。

◆◆◆

   経済発展の水準が低いにもかかわらずこれだけ賃金が高いと、当然ながら労働力をあてにした投資ははいってこない。アジアの開発途上国の投資誘因である「安くて豊富な労働力」がアフリカに存在しないからだ。それどころか、もしアフリカ諸国の経済が開放されれば、いまある製造業企業もアジアに移転してしまうだろう。……つまりアフリカの生産環境は労働集約型産業や中小企業にとってきわめて不利なのである。経済発展に飛び級はない。農業発達していないところでは製造業も育たないのだ。 (前掲書 p.138より引用 赤字強調は私)

―――

   構造調整が効果を発揮できなかった理由をひとことでいえば、当初想定されていなかった成長阻害要因がアフリカには存在していたということになるだろう。構造調整とは市場機能を拡幅して生産拡大インセンティブが働くようにする経済環境整備の政策だ。だが、経済学が通常想定する「価格が上昇すれば生産が刺激される」というようなメカニズムの発動が、アフリカにおいてはなにものかによって妨害されているということである。それはインフラの欠如といった物的なものかもしれないし、相互信頼の欠如といった社会的なものかもしれない。アフリカ問題と格闘するなかでその後の開発経済学は、その“なにものか”をさがすことに精力をそそいでいった。

   そこからさまざまな論考がうまれたが、アフリカの経済を呪縛している非経済的な要因を考慮にいれると生産を増やさないほうが最適行動になるという結論は共通している。最適行動である以上それをあらためるような誘因は働かないから、そこからぬけだせなくなる。つまり、アフリカにはミクロ経済学的な「貧困の罠」が存在しているということだ。……

   もう少し具体的にいえば、第3章で論じた農業の問題がもっとも大きいと私は考えている。少なくとも貧困問題が深刻化したのは農業の低生産性が最大の要因だ。第3章でのべたように、農業技術を「親から子への伝承」から科学的開発と政策的普及のシステムにかえるには、どうしても公的な介入がいる(126ページ)。社会インフラの構築が不可欠なのである。 (前掲書 p.188-190より引用)


◆◆◆

   とにかく、工業を盛んにしようと思ったらまずは農業から何とかしなければいけないようですね。なおこの事実に既に50年以上も前に気付き、平野氏と同様の結論を導いていた人が本邦にはいらっしゃったようです(↓)。

◆◆◆

   私が一番関心をもったのは、ルワンダ人は怠け者かどうかであった。……そして家事使用人や一部の官吏から受ける印象は、怠け者という外人社会の判断を支持するようにもみえた。しかし私が田舎を廻るとルワンダ人の藁葺きの小屋は清潔で、円型の生垣の中はチリ一つ落ちていない。……

   それでは生産はなぜ落ちているのか。私は彼らと話しているうちに、外人の説と反対に彼らが価格について一つの考えかたをもっていることを発見した。ある日コーヒーの会議の席上で、一人のルワンダ人がコーヒーの生産者価格を引上げて欲しいと述べ、「独立前はコーヒー一キロを生産すれば鍬一本が買えたが、今は倍生産しなければならない。昔は晒木綿が三メートル買えたのに今は一メートルしか買えない」といった。私は会議のあとで他のルワンダ人数人に、コーヒーの生産は今農民にとって有利かどうか聞いたら、彼らは一致して、「昔は農民は一人何本コーヒーを植えなければならないと強制されていたが、そのうちこれが現金収入の一番確実な方法であることがわかり、コーヒーに力をいれるようになりました。しかし最近はコーヒーを売って現金が入ってもそれを使って買う物資が殆どなく、物価も上っているので、コーヒーを作ってもつまらないと力を入れなくなりました」との答えだった。

   なるほどルワンダ人は家族の食物は自作しているので、現金は税金と鍬や繊維製品などの輸入物資のために必要なのであり、輸入品がなければ現金を手に入れる必要はないのである。コーヒーの生産が落ちているのはルワンダ人が怠け者だからではなく、物資の供給が不足し、価格体系が悪いから、彼らにとって価値を失った現金収入を捨てて自活経済に後退したというにすぎない。これは彼らが経済的に合理的に反応することを示すものではないか。私は非常に力づけられた。ルワンダ人のほとんど全部がもともと農民であり、そして農業に従事しているときは働き者である。彼らは彼らなりに自分の生活を大切にしているから、価格体系を是正して物資の供給を潤沢にすれば彼らはよく働き、農業生産は増進するはずである。これはまた、大統領の命じたルワンダ国民の福祉に直接つながるのである。ルワンダでは工業化による経済発展などという、後進国の多くでとられている性急な政策をとる必要はなく、まず農業中心で農民の繁栄をはかればよいのである。……


  (服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日記』中公新書1972 p.130-132より抜粋)


◆◆◆

   一言で纏めると日本銀行勤続二十年のベテランがリアル第三世界で経済無双するノンフィクションです(時代的にはカーマ氏らがボツワナで改革に乗り出す少し前で、ルワンダ紛争勃発に遡ること四半世紀前)。以下の纏めにも触れられている通り賛否両論ある人物ではあるみたいですが、この本については正直面白かったですよ。おススメですw。
  https://togetter.com/li/876831
  https://togetter.com/li/885702
 

資源国のインセンティブ

 投稿者:いっしゅう  投稿日:2019年 4月18日(木)20時39分45秒
編集済
   アフリカがヒャッハーな感じになりやすいのはこんな理由から。
 これはもちろん政治的な配慮から回避することは可能。アフリカや中東に限らず欧州にも資源国はあるけど、そこから得た収入で各種インフラ整備を行っている国は当然ある。

>平野克己『経済大陸アフリカ』
 経済学では企業に帰属する所得を利潤(プロフィット)という。労働者が労働によってうみだしたぶんの付加価値を賃金としてうけとるように、企業は生産に投下した資本がうみだす付加価値をうけとる。これが利潤であって、生産貢献にもとづく報酬である。しかし、資源国が資源産出から税金やロイヤリティをつうじて徴収する収入は利潤とはちがう。それはむしろ、地主が土地を貸しだしてえる地代(レント)に似ている。
 国民経済がプロフィットではなくレントを主要な収入源として運営されるようになると、そこには資本主義経済とはちがった原理が働くようになり、資本主義国家とはことなる国家があらわれるであろう。このような国家を「レンティア国家」という。レンティア国家論は中東産油国を形容する概念としてつくられたものであるが、そこではレント収入の確保と分配が国家運営の基軸になるから、生産志向の希薄な、国家主義的で保守的な政治がおこなわれるようになる。開発よりも権力維持のためにレント収入を使うようになるので、消費性向が高い、現状維持的で開発志向に欠けた政府ができあがるのである。


 資源産業はそれほど多くの雇用をうまないので、経済成長の果実が社会にひろくは裨益しない。経済成長の開始とともに完全雇用が実現して成長果実が労働者にあまねく分配されていく製造業依存の東アジアとは、この点がまったくことなっている。アジアでは経済が成長するにしたがってジニ係数がさがっていくが、資源国の場合はあがっていく。むしろ、経済成長と所得均等化が同時進行するのは優れて東アジア的現象だといえる。
 東アジア諸国は労働の比較優位を成長の原動力とするので、労働投入量を増やしながら経済が成長していく。生産された付加価値は生産への貢献度に応じて各生産要素に分配されるというのが生産関数の原理だが、東アジアの経済成においてもっとも貢献度が高い生産要素は労働投入だから、そこに成長果実が厚く分配されることになる。労働投入量が増えていく国ほど経済成長がはやくなるので完全雇用が達成され、国民の大部分が成長の成果をうけとるようになる。つまり、資源国で所得分配が不均等化していくのは、資源国の政府に慈悲が足りないということではなく、どのようにして付加価値が生産されているかというしくみの問題なのである。


 通常は経済成長にともなって都市人口が増え、都市の購買力があがっていけばそれだけ食料全般に対する支出が拡大して農産物が買われ、それが農村部の所得になる。その所得は、生産性向上によって減少した農村人口のあいだで分配されるから、農民の所得水準が絶対的にも相対的にもあがっていく。欧米ではおおよそ農民のほうが製造業の労働者より高所得だ。経済成長の成果が都市と農村を循環して農村に裨益していく経路がこれだが、アフリカではこの経路が閉ざされているのである。したがってアフリカでは経済成長がおこっても貧困人口がまったく減らない。



>MG 1/100 ガンダムF90
https://p-bandai.jp/item/item-1000134968
 なにこのおっさんホイホイ。ちょっと欲しいw
 

振り込めない詐欺かよ

 投稿者:いっしゅう  投稿日:2019年 4月16日(火)20時08分49秒
編集済
  >かつて承認は、ある程度は客観的な評価軸の上で成立していた。
>能力や才能、成績や経済力、親の地位や家柄などだ。
 たとえば私の頃だと、クラスでは寡黙であまり目立たないけど成績は抜群で学年主席だった人は悪ガキども含めて一目置かれていたように思います。極端な例では滅多に学校にこない(家庭教師付けて家で勉強してた)子がいたんだけど、これも(噂で)頭が良くて進学も偏差値の高い学校に行ったらしいんだけど、やっぱり一目置かれていた記憶があります。スポーツが得意な人もそうですね。
 要するになんでもいいんだけど、一芸に秀でている人はそれなりに一目置かれていたという状況に対して現在はそういうのがかなり希薄になっているようですね。個人的な感覚ではそういうのもあまり想像できないんですけど。

 承認の評価軸が限られ硬直した状況が原因だと私も思いますが、そもそも学校というのは同じ年代の同じ価値観の同じ環境の人間の集合体という社会全体から見れば特異的な環境で、SNSによって同質化がさらに加速してしまったということなんでしょう。
 習い事や塾など学校の外の環境にいることが多くても結局同じクラスタの人種だからね。学生が学生以外と付き合う(知り合う)のって実はかなり難しいんじゃないかな。


>変わらない日常
 肌感覚として、私の世代でたとえるならゲーム機はファミコン→スーパーファミコン→PS(セガサターン)→PS2(ドリームキャスト)…という風に進化していったし、携帯電話、パソコン、インターネット(ISDN→ADSL→光)など技術的進化と視覚的変化が体感できた。週休二日制も実施されたから生活習慣も変わった。コンビニが普及していった年代でもある。
 じゃあ今の20歳ってどうかというと、物心ついた時点で携帯はあるし、地デジ化で薄型テレビはあるし、ニンテンドーDSは2004年発売。子どもの頃の風景と今とそこまで大きな変化がないよね。LINEアプリは2011年にリリースされているからこれも2000年生まれなら小学生の頃にすでに存在している。生活環境や習慣がほぼ変わらない。
 多少の前後はあれど2000年以降生活習慣を含めてハード的にはほとんど変化してないね。


>中間共同体としてのネット
 ネットで20年近く固定ハンドルネームで活動してると、その時々で知り合いができたり、一定の信頼や評価を得たりしてるからそういうのでも十分だと思うんだけど、それは私がシゾイドだからその程度で済んでいるのか判別しにくいところではある。仕事してたときもボランティア含めて色々やったから複合的ではあるけど。
 個人的にはネットがあることで余計な(時間、対人)コストが抑えられるからやりやすいとは思うけど、これもほどほどで切り上げられる(満たされる)人にとってはそうでも、のめり込んでしまう人には中毒性のあるものなんだろうね。特性上、異質なものが混ざり合うよりも同質性の高い環境になってしまうことが多いし。



>やる夫はアフリカで奇跡を起こすようです
 ニコニコで視聴完了。書籍化の打診まで来たというのも頷ける内容。
 やる夫(セレツェ・カーマ)主役の映画化はされたようですね。日本では公開されていないので円盤も輸入盤しかないのが残念。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/09/50-13.php

 番外編のモーリシャスの事例が興味深い。トップ(特に前イギリス総督)が有能だとここまで上手く行くのかと感心する。南アフリカの5%以上連立ルールとか、やり方次第なんだなぁ。
 ソースも載っていた(ガチ勢すぎるww)のでいくつか読んでみたいと思います。


>国家の基盤が農村に置かれたことが無いという統治形態に起因
 なるほど。アフリカだととかく部族問題に原因を追及しがちだけど、統治形態が元々アジア系と違ってるのね。農村(末端)を維持する必要性がないから放置→武装勢力化で世紀末状態の連鎖なわけね。徴税と産業構造が統治形態に大きな関係がある指摘はいい勉強になりました。
 

アフリカ経済にちょっと興味が湧いて来た

 投稿者:この道の者  投稿日:2019年 4月14日(日)19時44分35秒
編集済
    【やる夫はアフリカで奇跡を起こすようです】
   http://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/blog-entry-5646.html

   ボツワナ共和国初代大統領セレツェ・カーマの波乱万丈の国づくり物語です。この手の題材のスレや動画の殆どが単に「知られざる埋もれた偉人」にスポットを当てただけで終わるのに対し、「国境を接する強大な隣国」南アフリカ共和国を含む数多の周辺国(と、嘗ての宗主国たるイギリス)との綱渡りにも等しい繊細な外交交渉の舵取り、南アのアパルトヘイトの誕生から撤廃までの顛末、加えてアフリカの開発途上国全般の財政援助・教育行政・インフラ整備を巡る問題点などなどを包括しつつ、極めて説得力ある持論を展開しているのは、流石歴史系やる夫スレの中でも屈指の名作の一つと呼ばれるだけのことはありますね(なお作者は別ですがニコ動にて全編映像化されているので、そちらで視聴する方が目に負担が掛からないかもしれません)。

   個人的には「諸外国から毎年莫大な額のODAを貰いながら、どうしてアフリカの農業生産高は上向かないのか=貧困が無くならないのか」という素朴な疑問に対する答えとして、「欧州の植民地時代以来、国家の基盤が農村に置かれたことが無いという統治形態に起因する構造的問題である。」と喝破した本編9話や22話が特に勉強になりました。


>彼らは絶望しているのではない。ただ「変化」というものが信じられないのである。
>「変化」の可能性そのものを断念することは「そこそこの幸福」を意味するのではないか


   若者の幸福感に関する大澤氏の見解は以前から知っていたんですけれども、斎藤氏は更に一歩踏み込んだ考察を行っているという印象ですね。いわゆる「終わりなき日常」ってヤツでしょうか。とはいうものの確かこの概念自体は1993年刊行の鶴見済『完全自殺マニュアル』の前書きに登場していた筈ですから、四半世紀前には既に存在していた時代感覚っぽいのですが。

   今の若者にとっては生まれた時に既にデフレ不況真っ只中で、円/ドルはすっかりボックス相場化して久しく、「失われた二十年」は依然継続中。政治的には今は亡き民主党が盛大にコケて以来、実質自民党一択の状況は容易に変わるとは思えない。その一方で結婚や子育てを断念し、質素倹約を旨とする限り食うに困ることは無く、「お一人様」として自由気儘に生きていけるだけの資力を生み出すことは可能である…一般に「さとり世代」と括られる若者が登場したのにもそれ相応の社会的背景があるってことですね。


>ある評価軸上での承認が得られなくても、別の評価軸で得られれば良い

   つまり趣味サークルやボランティアなど、複数の「中間共同体」に属するっていう処方箋ですよね。この論は佐藤優氏とか、若手の保守論客の一人である中島岳志氏とかが提唱されていますけれども、(以前御大も指摘されていた通り)これだけ個人主義が進んだ現代では、こういうリアルな対人関係を持つことは正直ハードルが高いように私は思いますねぇ。

   とはいえSNSのやり取りが、そういった中間共同体を代替する役割を果たすとも私には到底思えません。ただ「いいね!」を貰うためだけに、ひたすら「インスタ映え」する写真をネット上にupすることに躍起になる余りすっかり疲弊し切ったブロガーの話なぞを耳にすると、一歩間違えれば「自意識を際限なく肥大させる」危険なツールとなりかねないのでは?との懸念が拭えないですから(だから私はtwitterはやってないし、今後も多分やらないと思います)。


>春アニメ

   貧乏ガールズデュオによるアメリカン・ドリーム風味の成り上がり物語『キャロル&チューズデイ』なんかどうでしょう。一話を視聴した限りですが、将来のライバル、将来のマネージャー、芸事に理解の無い頑迷な親族が登場するなど、いかにも王道展開っぽいキャラ配置でしたね。
 

自立とは依存先を多く持つ云々かんぬん

 投稿者:cosmos  投稿日:2019年 4月13日(土)02時08分47秒
編集済
  >かつて承認は、ある程度は客観的な評価軸の上で成立していた。
>能力や才能、成績や経済力、親の地位や家柄などだ。

 それらそんなに客観的か?っていう。仮に客観的だとしても自分の状態の変化で揺らぐ危険性があると思いますが。
 或いはそれらの承認は上位存在から与えられる分、対等であるが故に揺らぎ易いクラスメイトの承認より安定していると言えるのかも知れませんが、お上の「気まぐれ」でひっくり返る事に変わりはないと思います。

 思うに、承認に執着してしまう現代の社会構造の要因っていうのは、「変わらない」「変われない」「今の自分を認めて」というスパイラルによる強化が原因というより、承認の評価軸が「キャラとしての承認」の一種類しか持てない事ではないでしょうか。
 要は、ある評価軸上での承認が得られなくても、別の評価軸で得られれば良いのではないでしょうか。それも駄目ならまた別の評価軸…という具合に潰しが利くようにしておけばいいって話では。

 勉強なんてホームスクーリングで良いから(逃げ場の無い)学校なんて行ってないで、SNSのアカウント発信するジャンル別に作っとけって僕なら言うね。


>ルルーシュ
 何か悲劇の主人公っぽく死んだけど、チート能力で願望を満たす傲慢さではハーレム主人公と五十歩百歩なんだよなぁ…寧ろ意識高い系的自己陶酔感がより鼻につくというか。

>あの超重度のシスコンが妹を振って自分についてきてくれる
 微塵も想像できねぇwwwちょっと興味出てきたわww
 

SNSは対人コストが増えるから使いたくない

 投稿者:いっしゅう  投稿日:2019年 4月11日(木)12時23分35秒
編集済
   ララの苗字は公式HPで最初から公開されてたからネタバレでもなんでもないんだよなぁ。


>どうしてそれが他者にダダ漏れに
 社会適応力が低いからでしょ。普通の人はもっと上手くやるよ。


 現代の若者心理について臨床、研究している精神科医が共通して指摘するのは以前にも増して「承認欲求」が強くなっていること。そしておそらくこれは現代の社会構造(社会情勢やSNSなどによるテクノロジーの変化)が要因にあるのではないか、というのが主な説ですね。

 もう少し実態について挙げるなら、斎藤環『承認をめぐる病』ではこう説明されています。

 承認欲求そのものは、人間にとって普遍的なものだ。最近の傾向として特異に思われるのは、マズローの欲求段階で言えばより高次な欲求であるはずの「承認欲求」が全面化し、極端にいえば「衣食住よりも承認」という”逆転”が見られつつあることだ。しかもその承認が「キャラとしての承認」である点に、もうひとつの問題がある。
 「キャラとしての承認」を求めること。それは承認の根拠を全面的に他者とのコミュニケーションに依存することだ。かつて承認は、ある程度は客観的な評価軸の上で成立していた。能力や才能、成績や経済力、親の地位や家柄などだ。宗教その他の超越的な承認もここに含まれる。もし客観的な「承認の基準」がしっかりと存在していれば、孤立を恐れる必要はなくなる。その基準のもとで自らを承認することが可能となるからだ。
 しかし現在の「承認」については、そうした客観的基準の価値ははるかに後退し、いわば”間主観的な”「コミュ力」に一元化されつつある。「キャラ」はそうした「承認のしるし」となる。
 承認を他者にゆだねることは、極端な流動性に身を任せることだ。ある教室では”強者”たり得ても、次の教室ではどうなるかわからない。所属する集団が変わるたびに承認の基準はリセットされることになる。



 「キャラとしての承認」というのは、予備知識がないとわかりにくいんだけど、現代小説でもちゃんと気づいている人は気づいてて、いわゆるスクールカーストっていうのは古いんだね。リア充が陰キャをいじめるっていう構図ではなくて、リア充同士でも突然いじめのターゲットにされたりして、それが全く読めない。
 というのもクラス内でキャラ(ポジション)が明確に決まっていて、それを逸脱すると「空気が読めない奴」「キャラが違う」と排斥の対象になる。だから今の子ども達に求められている最適解は空気を読んでその場その場でキャラに合った適切な返答をすること。
 勿論、私達に言わせればここでいう「空気を読んで」は「コミュ力」でもなんでもなく機械的対応に過ぎないんでこんなものをいくら磨いてもコミュ力にはならないんだけど、こういう人は確かに会社でも見かけましたね(無能な人間は年代を問わずいるので若者が取り立ててダメとは思わんけど)。
 こういったことが現代の若者層に見られるし、その狭い集団の中で求められているという話。

 で、若者層の「幸福感」についてこういう解釈がある。


若者の生活満足度や幸福度はこの40年間でほぼ最高の数値を示している。格差社会だ、非正規雇用の増加だ、世代間格差だ、と言われているにもかかわらず、当の若者たちは今を『幸せ』と感じている。一方で、生活に不安を感じている若者の数も同じくらい高い。そして社会に対する満足度や将来に対する希望を持つ若者の割合は低い」(古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』)

 このいささか混乱した印象をもたらす結果について、古市は社会学者・大澤真幸の論に依拠しつつ説明を試みる。
 大澤によれば、人が不幸や不満を訴えるのは、「今は不幸だけど、将来はより幸せになるだろう」と考えることができるときだ。逆にいえば、もはや自分がこれ以上は幸せになると思えないとき、人は「今の生活が幸福だ」と答える。若者はもはや将来に希望が描けないからこそ、「今の生活が満足だ」と回答するのではないか。


 著者はむしろ、ここに示されている「幸福度」や「満足感」、あるいは「希望」といった言葉の意味や定義そのものの変質が重要であるように思われる。


 「将来、より幸せになるとは思えない」ことは、一見絶望に似てみえる。しかし筆者の考えでは、この言葉は「将来、さらに不幸になるとは思えない」という感覚と表裏一体なのだ。絶望や諦観と最も異なるのはこの点である。彼らは絶望しているのではない。ただ「変化」というものが信じられないのである。
 もし「今よりも状況は、よくも悪くもならない」と信じられたら、あなたはどう感じるだろうか。おそらく現代の日本社会にあっては、「変化」の可能性そのものを断念することは「そこそこの幸福」を意味するのではないか。
 古市と筆者の見解の違いはこの点である。未来に絶望しているからこそ「今が幸せ」なのだと彼は指摘するが、筆者はそれを「絶望」ではなく、「あらゆる変化を断念すること」と考えたい。こころから「何も変わらない」と思えたら、多くの人はその感覚を「満足」や「幸福」と”翻訳”してしまうのではないだろうか。


 私自身の臨床経験から補足するなら、「不幸」な若者たちもまた、「幸福」な若者と同様に、「変化」の可能性を信じていない。つまりこういうことだ。今の若者における「幸福」も「不幸」も、「変化」の断念によってもたらされ、強化されているだけなのではないか。
 (赤字は私の強調)

 何を幸福だと思うかは個人の主観によるところが大きいのだけど、たとえば上や下を知っていることを前提にした「足るを知る」ことで得られる幸福感と、それを前提にしない幸福感は質的にも心理背景的にも別物。でなければ若者達が「承認」を求める理由が説明できない。満ち足りているなら他者の承認なんて微量で済む。けど若者達が自分は幸福と言いながら承認を求めるのは、結局それが、それでしか自分を規定できない、という自己の曖昧さに立脚しているからと考えられないだろうか。
 「自分も世の中も変化しない」という認識と、「キャラ」という役割の相乗効果によって「変わらない」「変われない」「今の自分を認めて」というスパイラルにハマっていっているのではないか、と斎藤氏は分析しています。


 ここで問題となるのは、まさに「コミュニケーション偏重」の風潮こそが、「変化の断念」をもたらしているのではないかと考えられるからだ。

 「キャラ」によるコミュニケーションの円滑化とは、相手のリアクションを予想しやすくするという意味もあるが、さらに重要なのは、しばしばコミュニケーションが「キャラの相互確認」に終始することがあるからだ。
 この種のコミュニケーションの快適さになれてしまった若者たちは、自らに与えられた「キャラ」の同一性を大切にする。成長や成熟を含むあらゆる「変化」は、「キャラ」を破壊し仲間との関係にも支障をきたしかねないため忌避されるようになる。コミュニケーション偏重が変化の断念をもたらすというのは、おおむねこういった理由による。

 現代の若者にとって重要な価値を帯びているのは「コミュニケーション」と「承認」である。それは多くの若者の幸福の要因であるとともに、それが得られない若者にとっては決定的な不幸すら刻印する。たかがコミュニケーションの問題が幸・不幸に直結してしまうのは、「現状が変わらない」という確信ゆえである。
 それゆえ若者の「うつ」もまた、「コミュニケーション」や「承認」をめぐって発生しやすくなる。職場で承認されなかった若者は、あっさり退職してひきこもり、うつ状態になってしまう。ここでも「たまたま生じた不適応」をきっかけに「自分はもともとそういう人間であり、それはこれからも変わらない」という思い込みが生じる。この考え方がうつ病と非常に親和性が高いのはいうまでもない。



>RobiHachi
 『TIGER & BUNNY』みあるな。つまりどっちが攻めで受けなの?
 

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