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ポロリもあるよ

 投稿者:安藤さんに踏まれたい  投稿日:2018年 7月21日(土)17時43分46秒
  メイン視聴者の親も、リアルタイムでは観てないんじゃない?>水着大会
あ、でも水着大会リスペクトになってる故に、プールサイドで歌うのにも説得力が出て来るのか。丸ワイプじゃないけど。

ナイトプールで楽しげな皆を見ながら、はな が考える「いつまでも、この幸せな時間が続けば良いのに」という自然な気持ち・プリキュアの使命。しかし、それは先週「酷い事をする」と憤ったプレジデント・クライと同じなのではなかろうか。それに気づいて戦慄する描写が新鮮でした。
(演出や、コスト削減等の実務的な理由も含めて)アニメ的な表現としての止め画を、「時を止める」表現とリンクさせた演出が、はなが夢見るモノの脆さを強く印象づけてくれました。
さて、プリキュアが絶望しかかっているところで、えみルーが変身もせずにトゲパワワを振り払っていってしまった様はGo!プリのクライマックスで、ゆいちゃんが自力で檻を破り、他者の檻まで開放させ得たシーンを思い起こさせますが、ハグもそろそろ2クールが終わる時期。あと半年で、どこまで行くんでしょう?
 
 

スタンスがずいぶん違うんだな

 投稿者:いっしゅう  投稿日:2018年 7月21日(土)16時16分41秒
編集済
   プロテスタントがカトリックをディスってるのウケる~~ww(野次馬)

>自己幻想の変容
>「自己肯定が強まる」、「自信がつく」、「成長する」
 変容を回避するために変容して対抗するっていう初っ端の論理展開が矛盾してるからね。
 ここでは自明として「良い変容」と「悪い変容」があって対幻想は前者、共同幻想は後者という前提の元に論理展開されているんですが、そもそも変容は任意に、恣意的に起こせないし、選べるようなものでもない(選べるならそもそも脅かされない)ので、何故対幻想が良いと言えるのか、対幻想に悪い変容を起こすリスクは無いのか? という部分が完全に抜け落ちている。この論理がまかりとおるなら全く逆のこと、対幻想は自己幻想を大きく破壊するが、共同幻想は自己幻想を受け止め認めてくれると言うこともできる。
 変容の可否、成否は選べない。結果論でしかないものを遡って結婚や恋愛を是とする論はただのイデオロギーでしかない。つまり「べき」論だ。

 ところでカトリックが結婚を神聖視しているなら離婚に対してはどうなの?と思ったら案の定厳しいのね。(↓とは違うサイトでは離婚すると教会に居づらくなるとか書かれてた)

カトリック東京大司教区
Q5:カトリックの教えでは、結婚した後で相手を嫌いになっても離婚ができないと聞いていますが、完全ではない人間にはそのようなことは無理ではないでしょうか?

結婚したいという人にその理由を聞くと、多くの人から「好きだから一緒にいたい」というような返事が返ってきます。カトリック教会の結婚の教えでは、そのような理由だけでは、まだ結婚の決意には不十分と見られます。好きだから一緒にいたいと思う、だからもう結婚でしょうか。それは嫌いになったら別れるということの裏返しに過ぎません。愛するということは、その人のよいところだけでなく、欠点や限界をも含めて愛するのです。また相手も同じようにあなたを引き受けるのです。したがって、後になってから「ここが嫌いだ」というような程度の理由で別れることを考えるような気持ちでは不十分なのです。

結婚は生活のなかで起こる問題や責任を協力して克服していこうという決意が求められます。メリットのあるときだけ一緒にいて、それがなくなれば一緒にいる気持ちはないというのであれば、神様の前で祝福をいただくには不十分な決意だと思います。


 見合い結婚とか、身分結婚(政略結婚とか同じ身分、地縁結婚)とかの結婚は? 結婚相手を親が決めることは日本でも外国でも昔は当たり前のことだったはずだけど。結婚してから愛や人格を育むのは想定外なのか? 歴史的に見れば結婚は「する」もので、恋愛による自由意志結婚は昔もあったとは思うけど、一般化したのは現代に入ってからの話だと認識しているのだけど。
 

成程これがカトリックか…

 投稿者:この道の者  投稿日:2018年 7月20日(金)12時04分44秒
編集済
  >これが言いたかったがために引用したんだろうな

   引用目的には二つあったようです。後書きによると来住神父の本書の執筆目的の一つは「キリスト教信仰の良さを、「イエス・キリストとの一対一の関係」という切り口で提示すること(これは御大の指摘通り)もう一つは「現代日本で結婚生活の意義を再評価すること」らしいですから。後者については更にこんな風に語っています(↓)。

◆◆◆

   日本の社会経済が難しい状況にあるという認識はほとんどの人に共有されていますが、その解決は政治改革とか市民運動、あるいは地域おこしなどに求められています。私はもちろんそれに反対ではありませんが、そのような努力は壁に突き当たっているような気がします。弱音を吐くわけにはいかないからみんな勇ましいことを言いますが、本当のところは、どこか「どうせたいして変わらないだろうけれど」という諦めがにじんではいないでしょうか。そうであれば、ここらで一度視点を転換して、結婚生活という「一対一」の関係を改めて見直し、その関係を深めつつ生きるように努めてみてはどうかと考えたのです。これは私生活への逃避ではありません。二人の私生活に足場を据えて、政治や地域に関わっていくという方向性を提示したいと思ったのです。この人生は生きるに値するものだという確信があって、はじめて政治や社会の仕組みを良くすることに意味を見いだせるのではないでしょうか(前掲書p.235)

◆◆◆

   プロテスタントの端くれとしては、一つ目の目的には同意するが、二つ目の目的は正直「あぁ、如何にもカトリックの神父らしい主張だなぁ、私は同意しませんが。」という印象でしょうか。というのもカトリックでは秘跡(サクラメント)の一つに数え上げる程に結婚を重要視しますが、個人主義的色彩の濃いプロテスタントでは「結婚は個人の事柄であって教会の行事ではない」とする教会も存在するほど、一般に婚姻関係そのものを特別視しませんから(礼拝説教で結婚がテーマになることも稀という印象は個人的にもありますね)。恐らく「秘跡であるにも拘わらず昨今軽視されがちな結婚を再評価すべき。」なる自説の根拠として、神父は吉本氏の「対幻想」概念を持ち出してきた…と言っていいと思います。


>自分の扱い難さと相手の扱い難さを充分に理解して付き合うには一人ぐらいが限界って事

   以下の文章からすると、確かに神父はそう主張されているみたいですね(↓)。

◆◆◆

   私たちはパートナーの何を知り、パートナーによって何を知られたいのでしょうか。もちろん日々、この人の善さ、暖かさ、賢明さを知っていく、「こんな良いところがあったのか!」と感じていくことは大きな喜びでしょう。しかし、最も深い静かな喜びは、むしろ欠点も含めて、「この人はこういう人なんだ、なるほど」という納得ではないかと思います。(略)自分の中の「どうしても変わらない部分」、それはだいたい世間の評価で言えば欠陥です。それをパートナーによって底の底まで知られて、それでも受け入れられることは、人に深い安らぎをもたらします。(同前、p.206-7)

◆◆◆

   基本平日は別居して独り暮らししている私ですが、愛妻は「この人は孤独が好きな人なんだ、放置しておこう」と思っていてくれているみたいですから、その点では感謝しています…でもこれって来住神父の言う、「自己幻想の変容をもたらすような親密な関係」ってヤツなんでしょうかねぇ?(苦笑)

   私のようなシゾイド気質の人間は、そういった「一対一の私的関係」を重要視するカトリックの価値観は正直苦手と言うか、苦痛ですね。キルケゴールの言うような「超越者の前に立つ単独者(=神対人間)」なる個人主義的要素の濃い信仰の持ち方の方が自分には合っている気がします。だからこそプロテスタントに留まっているのでしょうしね。


>「自己幻想の変容」というものが分かりません。
>ここでは「自己肯定が強まる」、「自信がつく」、「成長する」とかいう意味だと解釈しました。


   私もよく分からないので取りあえずcosmos様の解釈に乗っかりますが、それだと別に夫婦関係に限定する必要はないんじゃないの?と正直思います。例えば最近自分が「自己肯定が強ま」った経験だったなぁと思うことは、(以前にも書きましたが)教会を移る時に牧師から、「この道の者さんの信仰の持ち方なら何処に行っても大丈夫(=他人に影響されない、ブレない、要するに頑固)」と仰って頂いたことですね。別にその牧師とはプライベートで親交がある訳でも無いし、教会を移ってからは一度も連絡を取っていませんが、あの一言はその後の私の大きな自信になっていますね。他教派の教会に移っても全然平気、言ってみれば他流試合上等!みたいな(笑)。

   要するに結婚に代表される「一対一の私的関係」だけが特別大事ってのはおかしいんじゃないのかって私は言いたいですね。「自己肯定が強まる(乃至は弱まる)」決定的な一言は何もパートナーからだけでなく、友人から、職場の同僚から、ネットでの匿名のやり取りから思い掛けなく、いわば「天から降って来るもの」じゃないでしょうかねぇ。
 

困った時の神頼み、って昔から言われてるし。

 投稿者:長谷部  投稿日:2018年 7月20日(金)01時05分41秒
  >何か悩みがある時だけ礼拝に来る信者とかいそうだけど、そういう信仰(?)の仕方ってありなんですかね?

 キリスト教がどの程度受容するのかは知る由もありませんが、信仰一般としてはアリだと思いますね。
 宗教は元来、ご本尊様を指定している場合も含め、まずは自分のための信仰だと思うんですよね。誰かのための信仰は二次的・副次的だと。で、自分のためってどんな時(場面)にそれが必要となるかといえば、それは心がいろいろと弱っている時…ということになると思うんですね。
 これは、お墓参りも含むと思います。亡くなられた方のため…という形式に見えますが、その行為を通じて自らを安寧に導いているのが主たる目的になっている気がしてなりません。
 特に、何でもありの傾向が強い日本人としては、大いにアリだと思うなあ。
 こういう考え方って、一般的ではないですかね?
 

なんか合体しそうなんだよね

 投稿者:cosmos  投稿日:2018年 7月19日(木)00時11分0秒
編集済
  >プラネット・ウィズ
 ビジュアル的な共通点の多い「機巧童子ウルティモ」も最後合体したし。

 人生において埋められない欠落を抱え、埋まらない欠落を埋めようとし続ける行為が「力の進化」を促すから、その欠落の補填をする事で「力への意志」を無くすのが封印派のアプローチって感じか。
 そういうのってキリが無いと思うけどね~。

 こういう撃破対象の数が決まっている上に、そこに至るプロセスまで決まっている展開となると、中だるみ不可避だから同時撃破やプロセスの変更等の「ルール変更」を余儀なくされるんだけど、この作品はどうなるか…お手並み拝見といきますか。(偉そう)


>アンマンかよぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!
 上記の通り欠落を埋めようとする意志が力の源であるから、菜食という欠落、肉食への渇望こそが主人公のサイキックの源なのだ!!!…ってそれはないか?(苦笑)

 普通に考えると、あの三人の内誰かにとって共食いになってしまうから…ってとこじゃないですかね。



>対幻想と共同幻想
 ハピネスチャージのラブリー対アンラブリー(ファントム)戦を思い出します。
 アンラブリーのめぐみへの指摘は共同幻想からのめぐみへの評価でもあると考えた場合、自分はその評価通りだと感じためぐみは共同幻想に呑み込まれつつあると言えるし、そこで「ラブリーはそれでいいんだよ!」と言うひめは、めぐみにとっての対幻想の相手だと言えるのではないでしょうか?

 僕は無学なので「自己幻想の変容」というものが分かりません。なので、ここでは「自己肯定が強まる」、「自信がつく」、「成長する」とかいう意味だと解釈しました。

 後、自分は魔法使いなので分からないのですが、どうやら世の人は充実したセックスを行う事で、かなり精神的に救われる事があるという話を聞いた事がありますね。

 「良いパートナー」と「良い会社」の違いっていうと、自分の説明書を交換する相手が少なくて済むって感じかな~。
 自分の扱い難さと相手の扱い難さを充分に理解して付き合うには一人ぐらいが限界って事かと。社員全員の取扱説明書を把握しろって言われてもそりゃ無理だわ。
 

や、まあ、それで良いんなら別にいいんだけどさ

 投稿者:いっしゅう  投稿日:2018年 7月18日(水)20時56分44秒
編集済
   他人への怖れ←わかる
 自己は容易に「みんな」に呑み込まれる←そうだな
 対幻想によって~~共同幻想からのとりこみに強い抵抗力を示す←?!?!??

 シゾイドのワイ、意味がわからない。

>自己幻想の変容をもたらすような親密な関係を築く
 こうなりたくないから「他人への怖れ」を持ってるんじゃねーのかよw
 シゾイドの「呑み込まれ不安」と普通の人の他者への恐れは種類が違うのかもしれないけど、だったらそれってただの「人慣れ」の問題じゃねーのかって気がしてならないんだけど。世間体を気にしてるだけか?


○悠々汲々と過ごす日々
http://yuyukyukyuhibi.seesaa.net/article/413275551.html

 吉本は共同幻想論の中で、国家と個人の関係に迫ろうとしました。そこで、“対幻想”という概念を持ち込みました。
 1対1の人間関係の中でしか生まれない特別な意識のあり方、です。

 社会の共同幻想とも個人のもつ幻想とも違って、いつも異性の意識でしか存在し得ない幻想性の領域をさす

 社会学者の上野千鶴子氏は、吉本の共同幻想論に大きな影響を受けて、昭和57年に雑誌『思想の科学』に“対幻想論”を発表します。

 上野氏にとって、吉本の共同幻想論が画期的だったのは、“集団と個人”という伝統的な二項対立図式に“対”という独立した第3項を自覚的に持ち込んだ事でした。
共同幻想と個人幻想というと、集団と個人とか、国家と個人、と誰でも思いつくことであるのに対して、その2つの概念に匹敵するだけのものとして対幻想が提示されていたのです。

 上野氏はこの対幻想によって、恋愛関係に着目しました。恋愛は個人を変え、共同体の抑圧に対して強い抵抗力を持っている、という論を展開しました。
 恋愛というものが風俗じゃなくて、思想の対象になる(なり得る)というのがとても新しい事でした。セックスは大昔から人々はしてきましたが、論じる対象としていませんでした。
 人は死ぬことや生きることについてはさんざん考えてきましたが、人は産む事や生まれる事や、その前の性交する事については多く考えてこなかったのです。上野氏は対幻想を用いて考察したのです。

 吉本は女性を思想の中に取り入れたのです。そして性愛が思想の対象になる、と共同幻想論の中で説きました。
 一対の男女から始まる家族は対幻想を根幹として出来ている、と説いたのです。



 う~~ん。これって対幻想による抵抗力アップ(家族の思想化)ってよりさ、目の前の日常(家族を経営していくこと)に忙殺されているだけじゃないの? 目の前のことに忙しいんで世の中のことに構ってられません!っていうのと何が違うんだろう。

 吉本が唱えた、現代思想は個人主義を唱えながら逆に国や企業などの大きな組織に自己の存在理由を委ねてしまったという発想自体はそのとおりだと思うんだよね。特に日本では会社の転勤命令に従わざるを得ないし、会社のために生きてるのかって感じだし、学歴、会社のステータス感とか、ナショナリズムとか「お前の人生なのになんでお前自分以外のもので自分を価値付けてるの?」「俺、自分の人生自分で生きてる?」みたいな感じになってしまっていることは現代人なら誰しも感じることだと思うのよ。
 そういう自分が自分ではないものに取り込まれてしまう、自分を生きていないっていうことが実存の問題なんだけれども、これが家族やパートナーに置き換わったところでさほど違いを感じないというか、私がシゾイドだからそう思うだけで「俺は大好きな嫁さんと大好きな子どもと一緒に暮らせてサイコー!!」ってならそれでいいんだけど、「会社で疲れて、家族サービスで疲れて、終いには粗大ごみ扱いされたンゴ」「お隣さん家の子どもの方が成績良くてうぜぇぇ!」みたいなのはどうなの?っていう。
 結局振り回されるリスクは変わらなくて、良い人と巡り会えると良いよね♪っていうのなら、良い会社と巡り会えると良いよね♪と変わんなくない?


>同伴者イエスが居れば、もう何も怖くない
 これはわかる。っていうかこれが言いたかったがために引用したんだろうなって思ってる。
 

ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。(旧約聖書:コヘレトの言葉4章12節)

 投稿者:この道の者  投稿日:2018年 7月18日(水)12時15分27秒
編集済
  >対幻想が共同幻想に対抗できるという説

   吉本氏の著書も解説書も読んだことが無いので恐らく理解はあやふやでしょうが、来住神父の仰りたいことは何となく分からなくもないです。

◆◆◆

   たとえば、37章で述べた「他人への怖れ」はほぼ共同幻想(個人と共同体の公的関係)のレベルにあります。つまり、「“みんな”はどう思っているんだろう」という恐れです。それに対して、「自己をしっかり確立すればいいんだ」という考え方、つまり自己幻想(個人の内面世界)の強化で対抗するのは難しい。自己は容易に「みんな」に呑み込まれるからです。しかし、対幻想(個人と個人の私的関係)はそのような呑み込みを拒絶します。それはパートナーが自分を助けてくれるからではなく、対幻想によって自己幻想が不可逆的に変容し、その変容した自己幻想が共同幻想からのとりこみに強い抵抗力を示すからです。

   一人のパートナーとの間に、互いに相手を勝手に取り込んだり、取り込まれたりしないで、しかも双方の自己幻想の変容をもたらすような親密な関係を築く。そのような「濃い関係」は不特定多数の間ではなかなか成立しないものです。ここでしっかりした対幻想ができれば、人に対する怖れについても、世界に対する怖れについても、また、自分の統合性(authenticity)への疑惑についても、それを乗り越えて強く生きていくための核となることでしょう。

   キリスト者は、このような対幻想の相手として、人間のパートナーとイエス・キリストを重ね合わせて考えるのですが、もちろん人間のパートナーを得るだけでもとても大きな助けになると思います。

(『キリスト教は役に立つか』p.196より)

◆◆◆

   要するに来住神父は「同伴者イエス(乃至は親密な関係を取り結んだ友人や伴侶)が居れば、もう何も怖くない」ということが言いたいんでしょう。そういや仏教にも、私の地元の四国八十八カ所を巡るお遍路さんたちが笠に書きつけている「同行二人(どうぎょうににん)」なる類似した概念がありますね。

   私自身は、(私の理解では)必要悪であり、時として単なる悪に堕することもある「国家」や、有形無形問わず全てのものを商品化し、人間の欲望を果てしなく暴走させる「資本主義社会」などの共同体を相対化し対抗していくツールを提供してくれる点で、キリスト教信仰は「実用上役に立つ」と常々思っています。


>プラネット・ウィズ

   うん、ラスボスは委員長だ!(高天原という名前からしても)
   ところで、頑なに肉食を禁じるのは何の含意なんでしょうね?


>何か悩みがある時だけ礼拝に来る信者とかいそうだけど、そういう信仰(?)の仕方ってありなんですかね?

   他人の信仰の有無や深浅を気にするよりも、不断に我が身を振り返ることの方がよっぽど大事かな、と私は思っています。若い頃礼拝に来ていたがやがて離れてしまい、次に来るようになったのは八十歳目前…なんて方も実際お見掛けしましたしねぇ。本人が「信仰を捨てた」と思っていても、神様の側では手を放しておられないのではないかと。
 

厨二男子は案外メンタル強そう

 投稿者:いっしゅう  投稿日:2018年 7月18日(水)08時01分7秒
  >キュアエール大好きおじさん
 自分の目的のためにエールを応援してたら、本格的にファンになって世界征服止める。優しい世界。
 この人が珍しいのは正体がわかっても服の色が白のままなこと。

 HUGは対人関係で見た時に、実はディスコミュニケーションの色が強くて、基本的に他者理解をしない。主人公のはなが人の内心をよく見ないってのもあるんですが、社長に好感を持っていたのに突然ああなってわけがわからないはずなんだよね。この「わけのわからなさ」が子ども視点的にリアルだなぁ、と。
 漠然と自分はなんでもできる大人になれると思ってたけどダメで、世の中も実は脆くて(でも案外強くて)、知っていると思っていた大人は何だか全然わかんない人で。そういう手探り感が強いのが特色ですね。


>プラネット・ウィズ
 「平和」が間違っていたり、「Smile」が「5mile」になっているのは異星人が作ったからか。一種の「伝単」兵器なわけね。
 7人の方は順調に戦力が減っていっているけど、これはむしろサイキックが失われることでその人本来の姿が見えてくるから、能力喪失後の方が本番って感じがするね。

 まあ、そういうのはどうでもいいんで、銀子ちゃんのおっぱい揉ませて(直球)


>ハイスコアガール
 スクエアと一悶着起こしてたのは知ってたけど、許されたのか。
 

医者「大人になるとな、人には言えない事を抱えて生きて行かなきゃならん」

 投稿者:cosmos  投稿日:2018年 7月17日(火)23時00分7秒
編集済
   強化されたオシマイダーも何のその。変身前に決着付ける勢いを見せる世界のタフさを見るに、はなの中で世界が脆く感じられていたであろうことが分かるエピソードでしたね。

 もう一つ、はなの「大人観」とでも言えるものが揺らいでいたかも知れません。前回でも大人の悪行にやや過剰な怒りを示していましたし、憧れの大人像になりつつあったであろう社長の豹変も「大人とはどういう人間か?」という命題に揺さぶりをかけていたと思われます。

 ちょっとはるかとトワイライトを思い出しますね。プリンセスであるトワイライトと決別する事で自らのプリンセスを確立させたはるかと比べると、はなは対称的ですが。


>はなと社長
 はなは具体的に何かを考えてはいない気もしますが、社長はいずれはなが自分の理解者になってくれるとか思ってそう。


>野菜工具天使さあやちゃん(激辛)は負けず嫌いに枯れ専疑惑が浮上!?
 全国のオッサン視聴者に朗報!これで僕にも未来が…(ホワ~)


 さて次回、今回が水着回だったからかサブキャラが女性よりでしたが、次は男性よりになるのか?社長とはなの関係に進展があった今、ひなせ君の動向が注目される??



>3DCG
 キュアエールの腕の半透明の部分が脇の下にないデザインになってましたけど、アンジュも脇の下に半透明の部分がないデザインに変わってるんですよね。
 腕を閉じた時にシースルー部分が干渉すると何か不都合でもあるんだろうか?



医師にも見放された難病が祈りによって治癒した経験から教会に通い始めた人は長続きせず、
>しばらくすると礼拝に顔を出さなくなることが多い。

 宗教を自分が抱えている問題の解決に使えるツールって捉え方をした場合の一つのケースに思えますね。問題がない時は使わない。
 これは精神の問題にも同じ事が言えそうで、何か悩みがある時だけ礼拝に来る信者とかいそうだけど、そういう信仰(?)の仕方ってありなんですかね?



>ハイスコアガール
 90年代アーケードゲームのネタを楽しむアニメ…なんだろうけど、ゲームだけが取り柄の陰キャ主人公とハイスペック無口ツンデレ(?)ヒロインの、肉体言語を通した心の交流が何かもうキュンキュンするw
 上記のゲームネタとキュンキュンが相乗効果を生み出し、何とも言えないノスタルジーな気分に浸れる逸品ですね。
 

地球の反対側で起こっていることをリアルタイムで知ることが出来るっていうのも十分奇跡だと思う

 投稿者:この道の者  投稿日:2018年 7月16日(月)17時36分55秒
編集済
  >社長は裏(闇)主人公的ポジションになるんじゃないか
>お互いに強く影響受けそう


   お互いに影響を受け過ぎて、年明けすぐあたりで善玉悪玉が入れ替わっちゃったりして(笑)。


>その程度の詐術をキリスト教は許容するの?

  「どうだ、奇跡を起こした俺は素晴らしいだろう?皆の者我を崇めよ!」などとは口が裂けても言わず、「俺という道具を通じて奇跡を起こされる神様は素晴らしい!」なるスタンスを堅持する限りにおいて、布教(「この道」では普通「宣教」と呼称しますが)目的のためならある程度は許容(むしろ奨励)すると言って差し支えないと思います。

   カトリックについては存じ上げませんが、例えばプロテスタントの一部の教派では、神の力による超自然的な心身の癒し(神癒)を中心教理の一つに据えているところもあります(メソジストの流れを組むホーリネス系や、聖霊の働きを強調するペンテコステ派が代表的)。有名どころでは後のK・バルトにも影響を与えたルター派のブルームハルト牧師父子とかが思い付きますね(↓)。

  【ブリタニカ国際百科事典 小項目事典より】
   https://kotobank.jp/word/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88-127446

   聖書が超越者による全人的な救済を標榜している以上、救済が精神レベルに留まるというのも変な話だから神癒があっても別におかしくはありませんし、それを未信者に教会に足を向けさせる切欠として利用した(している)というのも想像に難くありません(今ほど医学が発達していなかった昔であれば尚更)。ただやはりこの手の「分かりやすい奇跡」は現世利益のみを求める人間の欲望に容易く呑まれてしまいがちでもあるし、更にオウム事件以降オカルト的なものを警戒・忌避する風潮が根強く残る昨今の日本においては、あまり強調し過ぎない方が良いのではないかと個人的には思っています。

   というのも、神癒をすることで有名なある牧師によると(直接の知り合いではないのであくまでまた聞きですが)、「医師にも見放された難病が祈りによって治癒した経験から教会に通い始めた人 ― つまり奇跡を見て信仰の道に足を踏み入れた人 ― は長続きせず、しばらくすると礼拝に顔を出さなくなることが多い。」らしいですから。
 

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